ずいぶん昔に山口美江の記事を新聞で読んで、それからというもの彼女に対する見方が完全に変わった。その記事がその新聞社のサイトでアップされていて、久しぶりに読んだ。

↓若い日の私:山口美江=タレント 「日本」を教えてくれた歌舞伎(1991年3月掲載)
http://mainichi.jp/feature/sanko/archive/news/2012/20120309org00m040006000c.html?toprank=onehour

今読んでも感動する…。

ところで。
山口さんはひとりで死ぬ覚悟は十分できていたんじゃないかしら。もし死がわかっていたら、準備だって完璧にしていたような。それは別に淋しいことじゃないと私は思う。ただ予期せぬ形になってしまっただけで…生きる意志があり、死が訪れるとは思ってなかっただろうご本人には不本意だっただろうなと。それが残念で。

ご冥福をお祈りいたします。

 私は小学、中学、高校と横浜のインターナショナル・スクールに通ったのですが、あの十二年という歳月で醸成された思い出の数々は、善きにつけあしきにつけ、一生、私のエネルギー源として残ることでしょう。

 なかでも私にとって一番の財産は、さまざまな国の子供たちと触れ合え、いまだに当時の先生方や同窓生との交流を保ち、何かという時に慰めてくれたり、一緒に笑ってくれる人々がいることです。生徒数は全校合わせて約三百人の小さな学校だったのですが、約五十カ国の生徒たちがともに学園生活をおくるという、まさに「人種の坩堝(るつぼ)」でした。

 その坩堝の中で十二年間過ごした私にとって最も欠落していたのは、日本人としての認識と常識でした。私は「国際性」とは、さまざまな国の文化や思想を理解することであるとかたくなに信じていた半面、自分自身の国に関しては、全く無頓着(むとんちゃく)でありました。

 いま「トレンディー」なんていう言葉がもてはやされていますが、私の学生生活において、いち早くファッションや音楽に関する情報を持って来てくれる、トレンドの「伝道師」は欧米人の学生たちでした。次第に私は欧米人と同じ生活をおくり、同じものを嗜(たしな)むこと、すなわち、自分の国である日本を抑えてしまうことが、真の「国際人」であるという錯覚に陥りました。

 日本語は外国語として学び、日本史は世界史のほんの一部分としてのみ学習し、「源氏物語」の主人公の名は、光源氏ではなく、「SHINING PRINCE」として習うことに何の疑問も抱かず、ただ我武者羅(がむしゃら)に「欧米流」を追求していました。学校以外でも日本について勉強する機会はいくらでもありましたが、それをあえて否定することが、「国際性」に結びつくと思っていたのです。

 この誤解から目覚めさせてくれたのは、歌舞伎との出会いでした。高校二年の時、祖父に連れられて初めて歌舞伎座で「勧進帳」を見たのですが、その時受けた感動は、今も鮮明に覚えています。目の前に広がった雅(みや)びやかな色彩、耳に心地よく響くせりふ回し、そして見事に表現されていた温かい人情--。そこで繰り広げられたものは、まさに日本の美の縮図であり、それをあえて否定し、無視してきた自分の愚かさを恥じました。

 それから私は歌舞伎の大ファンになり、毎月のように通いました。歌舞伎が与えてくれる感動には、何の理屈も説明も必要ありません。私は歌舞伎を通し、自分の国日本を見つめ直し、その素晴らしさを発掘出来たのです。「国際性」とは他国に迎合するのではなく、自分の国の神髄を理解することが原点であることも学びました。

 私は、日本人の神髄は、歌舞伎でしばしば取り上げられるテーマ「人情」を尊重する心であると信じ、これからも、そうであることを願います。時代のテンポが速すぎると感じた時、殺伐とした事件や事故ばかりが目につく時、私は歌舞伎座に足を運びます。高校二年の時に「勧進帳」から得た大きな教訓を、一生大切にしたいと思います。

 (やまぐち・みえ=タレント。1961年に横浜市に生まれ住む。上智大比較文化学科卒。柴漬けのCFで有名になり、テレ朝の「CNNヘッドライン」の、現在はフジTV「ニュースCOM」のキャスター、TBSの「世界まるごと2001年」の司会など。「恋におちて」(英詩)やタカラCanチューハイのCMソングの作詞をするなど大活躍。英検1級)


コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

日記内を検索